戦前の下田みやげ「唐人お吉」と聞いても今や「聞いたことはある」程度の人たちがほとんどではないだろうか。とくにインターネットを操る世代以降の人たちは…。
和服姿の女性が主人公だというイメージから「番町皿屋敷」や「四谷怪談」といった怪談ものとゴッチャになっている人も少なくないくらいだ。
「唐人お吉」が一大ブームになったのは、もう80年以上も昔…昭和初期のことだから無理もない。
そこで、このレポートでは、そもそも「唐人お吉」とは、どんな物語なのか? また、その物語はいかにして、かつて一大ブームをまきおこしたのか?…について解説を試みる。
唐人…とは、「唐」の国の人という意味なので、もともとは中国や朝鮮の人を指していた言葉だが、やがて広く「外国人」を意味するようになった。
お吉…は、本名を「斎藤きち」という伊豆下田に実在した女性。物語のうえで職業は芸者。「きち」を漢字で「吉」と書くのは芸者名らしい。
鶴松の墓〜稲田寺(とうでんじ)唐人お吉…物語の舞台は伊豆下田。時は、アメリカから黒船がやってきて、いよいよ日本が開国することとなり、ペリー提督率いる黒船艦隊が去った2年後の安政3(1856)年。横浜が国際港として建設されるまでの間、臨時に開港された下田に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが着任したところから始まる。
ペリーが結んだ日米和親条約に続いて、日米通商修好条約を結ぶことを使命としたハリスは、江戸にのぼって将軍との直談判を望むが、下田奉行はのらりくらりとそれをかわす。
ストレスによって病の床に伏したハリスの元へ看護婦の名目で下田一の芸者だったお吉を通わせる要求がハリス側からあり、江戸への足止めに利用できると考えた下田奉行はも嫌がるお吉を“お国のため”にと説得する。
お吉終焉の地〜蓮台寺・お吉が淵 お吉と将来を誓ったはずの船大工、鶴松には、政治力によって侍に取り立てると約束し、強引にお吉と別れさせた。
心の支えだった鶴松にも裏切られたお吉は、仕方なく嫌々ハリスの元に通い、ハリスに尽くす。
ハリスが下田から去った後も、お吉は世間から異人に肌を許した「唐人」と罵られ、次第に酒に溺れていくようになってゆく。
鶴松と再会し、横浜で一緒に暮らすも喧嘩は絶えず、わずか数年で離別。しかも、その直後、鶴松はぽっくり病でこの世を去ってしまう。
お吉の墓〜宝福寺(ほうふくじ) 下田に戻って小料理屋を開くお吉だが、世間の風当たりはまだまだ強く、店も長くは続かない。
失意のお吉は、乞食にまで身を落とした挙げ句、入水自殺によって、つらく悲しい生涯を終えた。…とされる。
美人だったばかりに時代に翻弄され、国の犠牲になった幕末の悲劇のヒロイン…それが、長い間、人々の同情を集め、人気を誇った「唐人お吉」物語である。
村松春水の碑〜下田公園「唐人お吉」の物語が誕生するきっかけを作ったのは、静岡県焼津出身の医師、村松春水(むらまつ しゅんすい)。
明治維新後、静岡での開墾作業に就いていた老人に、お吉の話を聞き興味を覚えた春水は、明治29(1896)年、33歳で下田に居を移し、眼科医院を開くかたわら、下田を中心とする開国史を研究するようになる。
このきっかけとなった老人こそ、お吉を説得してハリスの元へ行かせた元下田奉行、伊佐新次郎だったという。
春水は30年にわたる研究の末、大正14(1925)年に郷土誌「黒船」に論文を発表。昭和2(1927)年には「実話唐人お吉」として書籍化された。
伊豆急が開通する以前の案内図 その版権を川端康成と同窓の十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう)が買い取り、昭和3(1928)年に小説「唐人お吉」を中央公論に発表。次いで昭和4(1929)年から一年間、東京朝日新聞に「時の敗者 唐人お吉」連載し、人気を博す。
昭和4(1929)年に万里閣書房から書籍化された「唐人お吉」は、現在の東海汽船の前身である東京湾汽船が、東京〜大島〜下田を結ぶ観光航路を宣伝するため、1万冊を買い取って乗船客に配布し、ブームをあおった。伊豆急行が下田まで通る32年前の話である。
前述の通り、小説家、十一谷 義三郎は東京帝国大学文学部英文学科で、後にノーベル文学賞を受賞した川端 康成と同窓。年齢は1897(明治30)生まれの十一谷の方が2歳上だ。奇しくも出身も同じ関西圏で、早くに父親を結核で亡くしたのも同じだった。そんな二人が良きライバルだったのは、想像に難くない。
1924(大正13)年、川端が帝大を卒業した年この年、文学仲間が集まって同人雑誌『文藝時代』を創刊する。もちろん、そこには十一谷もいた。
2年後の1926(大正15)年、この同人誌に川端が後世に名を残す名作を発表した。「伊豆の踊子」である。この時、川端康成27歳。同年、川端は結婚もしているから、まさに幸せの絶頂だったことだろう。
十一谷 義三郎「唐人お吉」〜絶版 それからさらに2年後の1928(昭和3)年、川端に対抗するように、十一谷が発表したのが「伊豆の踊子」と同じく、伊豆の女性を主人公に書いた「唐人お吉」である。
十一谷が、無名の郷土史家から版権を買い取ってまで、また、当時の世相を読み、必ずヒット作を生み出したかったのには、川端に対する対抗意識があったに違いない。
さらに推察されるのは、十一谷が抱える宿命だ。十一谷は父だけでなく、弟も結核で亡くしていた。功を急ぐ気持ちは、こんなところにもあったかもしれない。
十一谷は「唐人お吉」に続いて発表した「時の敗者唐人お吉」の大ヒットにより、31歳で国民文芸賞を受賞した。
そして、「唐人お吉」で注目された、わずか7年後…1937(昭和12)年4月2日、39歳の若さで結核により亡くなっている。
昭和5(1930)年以降「唐人お吉」は、映画化、舞台化、歌謡曲化が進み、ブームは全国的に広がっていった。
この頃の日本は不況のどん底。
昭和6(1931)年には満州事変が勃発し、中国へ進出する日本とアメリカの緊張関係が増していった時代。
国民の間で反米感情が高まっていたことから、「唐人お吉」の物語中、開国を強要したとみられるハリスと、その犠牲となったお吉への同情心が「唐人お吉」のブームを支えていたとも言える。
人気キャラクターとなったお吉 戦後も中山あい子など数々の作家が「唐人お吉」をリメイクしており、現在も伊豆下田観光の目玉として、お吉の命日にあたる3月27日には「お吉まつり」が開催されているが、かつてのようなブームには結びついていない。
また、お吉の顔写真は、幕末の国民的ヒーロー坂本龍馬の写真と並んで紹介されることも少なくないが、現在最も多く目にする「19歳のお吉」をはじめ、ほとんどの写真が観光客向けのヤラセであることは残念だ。
※詳細は研究レポート001「19歳のお吉」写真の謎を解く〜参照のこと。
ちなみに1963年4月7日から12月29日までNHKで放映された1作目の大河ドラマ「花の生涯(原作・舟橋聖一)」は、桜田門外の変で暗殺された幕末の大老、井伊直弼の生涯を描いた作品だが、第18話(1963年8月4日放映)「お吉・お福」では、当時28歳の朝丘雪路がお吉を演じていた。
ハリスを演じていたのは、なんと日本人の久米明。ハリスと共に下田に着任した通訳のヒュースケン役は岡田眞澄だったというから驚く。見てみたい…!
が、残念ながら当時はビデオテープが高価だったため、NHKにも録画は残されておらず、現在は見ることが出来ない。
黒澤明と並び、海外でも評価の高い溝口健二が昭和5(1930)年に監督したサイレント映画「唐人お吉」のフィルムも現在は4分間の予告編フィルムしか残っていない。
お吉さんの没後120年以上…、空前のお吉ブームから80年以上が経ち、世間では、かつて人気を呼んだ「唐人お吉」の物語を知る人も少なくなった。
今こそウケ狙いの反米感情も、観光客の人気集めを目的とした派手なパフォーマンスも抜きにした、生身のお吉像が語られるべき時ではないだろうか。それができるのが本当の平和だと思える今日この頃…。
※このレポートはdigitake.com記載「伊豆と女と二人の作家」ほかをベースに書き直したものです。
■参考資料
「肥田 実 著作集 幕末開港の町 下田」肥田 実=著/下田開国博物館=刊
「春水の松」説明書き 下田市1丁目12
「ウィキペディア wikipedia」
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